おいらの【介護感】の相違について
日曜日には、毎度近所にある出来立ての公園で、
セイウチは、チャリで十周し、その間おいらはストレッチ。
後、どれくらいこういう時間があるのか考える。
いまだにおばあの死を引きずっているのか、
素直に物事がなかなか見られない気がする。
母の日のグッズを見れば、おばあを思い出し、
今度の8月3日で百か日、14日には初盆である。
先日、おじいが体調不良になり、
また介護の日々があるわけないのに、不安が自分を襲った。
もう、おじいまでは無理だと心が叫んでいた。
情けないやら、根性もないやらで、四面楚歌状態。
自分はこんなにも薄情だったのかと思う。
だけど、やはりまだ気持ちに余裕がないのか、
周りの人たちが自分よりも幸せに見える。
でもふと振り替えると、側にはセイウチがいる。
やっぱり幸せなんだろうな。
だけど、日々寂しさもよみがえる。
こんなにも大きな喪失感を味わったことはない。
いまだに信じられないのではあるが、
まだおじいまでの余裕はないな。
親不孝だろうが、出来ないものは出来ない。
この、かなりの矛盾は一体何だろうか。
卵が先か、鶏が先かではないが、日々思い悩む。
疲れてんのかな?
by northtravel | 2011-07-05 00:01